【レビュー】『君の名は。』のモヤモヤ感は、デカダンスの背徳的心理で昇華できる

ところで『君の名は。』の興行収入が『もののけ姫』を抜いて邦画3位に躍り出たらしい。200億突破も確実だそうだ。まあこれは置いておこう。

実際のところ、この映画を観てモヤモヤ感を残す人は一定数いると思う。

しかし、それを口にすると嫉妬だの陰キャだの言われるから口を閉ざしているのではあるまいか。民主主義に則るまでもなく、大多数が是とするものを真っ向から否定しにかかるのは怖いことだ。感覚は大切だが、その感覚だけでモノを言うと大抵の場合反駁できないままフルボッコにされて終わる。何となく気に食わぬ、なんて言おうものなら嘲笑されて悔しい思いをする。それがわかってるから、口には出せずにもっとモヤモヤして、八方塞がりになるのだ。

今回は、そんなあなたに贈る心療記事である。

この記事を読んで、少しでも心理的負担を減らす手助けになれば、そしてひとつの答えになれば幸いだ。

・目次

前提

前回記事と検証

…というわけで、なんで『君のは。』はモヤモヤするのか?という検証記事である。

言うまでもなく、この映画は若年層を中心に圧倒的な支持を受けている。

しかし、万人向けの映画とはいえ、ある一定数はこの映画に否定的な意見が存在するのもまた至極当然である。

確かに、素晴らしい映画であることは疑いようはない。しかしながら、受け手がどう感じるのか、という点に於いては千差万別なのだから、ちょっと批判的な意見を述べただけで陰キャだのなんだの、人格攻撃まで行うことはあるまい。

恐らく、ではあるが、10人中1人はこの映画を観て、何か心に引っかかったような負の感情を抱えているのではないかと思う。いや、もっと少ないのかもしれない。

それは、おそらく得体も知れぬ不安のようなものであろうと思う。

…さて、それではそもそも『君の名は。』がどういった要素で構成されているのかという話から入る。

美という観点から

流麗な映像描写

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どこのブログや評論を覗いてみても、まず必ず言及されているのがこの劇中に於ける映像美である。

まさしく圧巻の美しさ、新海誠の本領発揮ともいえる。

青春美

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特に10代の青春は一瞬で過ぎ去る。

青く若々しく瑞々しく、ボーイ・ミーツ・ガールとは多くの人々が夢を描く青春美の結晶である。

だからこそ、我々は若かりし頃の憧憬に思いを馳せる。

他にも様々な要素はあるが、今回言及する点に於いては、この大まかな2点で十分だろう。

して、いよいよ本題に入っていきたいと思う。

皆さんは梶井基次郎という作家をご存じだろうか。

高校の現文の教科書に載っている、『檸檬』の作者と言えばピンとくるであろうか?

梶井基次郎について

梶井 基次郎(かじい もとじろう、1901年(明治34年)2月17日 – 1932年(昭和7年)3月24日)は、日本の小説家。感覚的なものと知的なものが融合した簡潔な描写と詩情豊かな澄明な文体で20篇余りの小品を残し、文壇に認められてまもなく、31歳の若さで肺結核で没した

引用:梶井基次郎 – Wikipedia

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梶井の顔は、今見ても厳つい。

野武士、荒武者、そんなイメージを彷彿とさせる。

しかし、この顔からは想像もつかないような、極めて繊細な性格だったと言われている。

そして人間の深層心理に真に迫った極めて詩情的で、美しい文章作品の数々…

これこそまさしく正しい意味でのギャップといえるのではなかろうか。

余談ではあるが、私が『文豪ストレイドッグス』嫌いな理由の一つが、浅学の原作者が梶井をチ〇コ頭のグラサン野郎にしやがったことだ。檸檬爆弾(激寒)

関連:私が『文豪ストレイドックス』をクッソ嫌いな理由、そして作者の朝霧カフカ氏について

それは置いておいて、この梶井の著名な作品の一つに、『櫻の樹の下には』がある。

「櫻の木の下には死体が埋まっている!」のフレーズで有名だ。

個人的には「吾輩は猫である」、「メロスは激怒した」に並ぶ名導入文だと思う。

以下、抜粋。ちなみに著作権切れで青空文庫にも載っているので転載に関してはなんら問題は無いのであしからず。

櫻の樹の下には

桜の樹の下には

梶井基次郎

桜の樹の下には屍体が埋まっている!
 これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。

 どうして俺が毎晩家へ帰って来る道で、俺の部屋の数ある道具のうちの、選に選ってちっぽけな薄っぺらいもの、安全剃刀の刃なんぞが、千里眼のように思い浮かんで来るのか――おまえはそれがわからないと言ったが――そして俺にもやはりそれがわからないのだが――それもこれもやっぱり同じようなことにちがいない。

 いったいどんな樹の花でも、いわゆる真っ盛りという状態に達すると、あたりの空気のなかへ一種神秘な雰囲気を撒き散らすものだ。それは、よく廻った独楽が完全な静止に澄むように、また、音楽の上手な演奏がきまってなにかの幻覚を伴うように、灼熱した生殖の幻覚させる後光のようなものだ。それは人の心を撲たずにはおかない、不思議な、生き生きとした、美しさだ。
 しかし、昨日、一昨日、俺の心をひどく陰気にしたものもそれなのだ。俺にはその美しさがなにか信じられないもののような気がした。俺は反対に不安になり、憂鬱になり、空虚な気持になった。しかし、俺はいまやっとわかった。
 おまえ、この爛漫と咲き乱れている桜の樹の下へ、一つ一つ屍体が埋まっていると想像してみるがいい。何が俺をそんなに不安にしていたかがおまえには納得がいくだろう。
 馬のような屍体、犬猫のような屍体、そして人間のような屍体、屍体はみな腐爛して蛆が湧き、堪らなく臭い。それでいて水晶のような液をたらたらとたらしている。桜の根は貪婪な蛸のように、それを抱きかかえ、いそぎんちゃくの食糸のような毛根を聚めて、その液体を吸っている。
 何があんな花弁を作り、何があんな蕊を作っているのか、俺は毛根の吸いあげる水晶のような液が、静かな行列を作って、維管束のなかを夢のようにあがってゆくのが見えるようだ。
 ――おまえは何をそう苦しそうな顔をしているのだ。美しい透視術じゃないか。俺はいまようやく瞳を据えて桜の花が見られるようになったのだ。昨日、一昨日、俺を不安がらせた神秘から自由になったのだ。
 二三日前、俺は、ここの溪へ下りて、石の上を伝い歩きしていた。水のしぶきのなかからは、あちらからもこちらからも、薄羽かげろうがアフロディットのように生まれて来て、溪の空をめがけて舞い上がってゆくのが見えた。おまえも知っているとおり、彼らはそこで美しい結婚をするのだ。しばらく歩いていると、俺は変なものに出喰した。それは溪の水が乾いた磧へ、小さい水溜を残している、その水のなかだった。思いがけない石油を流したような光彩が、一面に浮いているのだ。おまえはそれを何だったと思う。それは何万匹とも数の知れない、薄羽かげろうの屍体だったのだ。隙間なく水の面を被っている、彼らのかさなりあった翅が、光にちぢれて油のような光彩を流しているのだ。そこが、産卵を終わった彼らの墓場だったのだ。
 俺はそれを見たとき、胸が衝かれるような気がした。墓場を発いて屍体を嗜む変質者のような残忍なよろこびを俺は味わった。
 この溪間ではなにも俺をよろこばすものはない。鶯や四十雀も、白い日光をさ青に煙らせている木の若芽も、ただそれだけでは、もうろうとした心象に過ぎない。俺には惨劇が必要なんだ。その平衡があって、はじめて俺の心象は明確になって来る。俺の心は悪鬼のように憂鬱に渇いている。俺の心に憂鬱が完成するときにばかり、俺の心は和んでくる。
 ――おまえは腋の下を拭いているね。冷汗が出るのか。それは俺も同じことだ。何もそれを不愉快がることはない。べたべたとまるで精液のようだと思ってごらん。それで俺達の憂鬱は完成するのだ。
 ああ、桜の樹の下には屍体が埋まっている!
 いったいどこから浮かんで来た空想かさっぱり見当のつかない屍体が、いまはまるで桜の樹と一つになって、どんなに頭を振っても離れてゆこうとはしない。
 今こそ俺は、あの桜の樹の下で酒宴をひらいている村人たちと同じ権利で、花見の酒が呑のめそうな気がする。

引用:梶井基次郎 桜の樹の下には

『この櫻の木の下には』は、私が純文学にのめり込むきっかけになった作品である。

初めて読んだときは、鳥肌が止まらなかった。

想像力を掻き立てられる文章とは、このようなことをいうのだ。桜に新たな日本的観念をもたらした作品でもある。

舞い散る桜の儚げな美しさが死を連想させるという、今日ではよく比喩表現として使われているものに近しい。

さて、何故いきなり梶井の話をしだしたのかと、この記事をご覧になっている方々は訝しがっていることだろう。

しかし、この『桜の木の下には』こそが、後述するデカダンスの心理のわかりやすい例であり、核心に迫っているものだと私は思うのである。

デカダンス

 フランス語で退廃,衰退の意。文学史上では,19世紀末ヨーロッパ,特にフランスに生じた,懐疑的・耽美(たんび)的・悪魔的傾向をさす。初期象徴派の一特徴でもあり,このような芸術家をデカダン派と呼ぶ。

この『櫻の樹の下には』は、デカダンスの美意識、真理を描いているとされる。

実際難しい話なのであるが、要はあまりにも美しいものは人を憂鬱にさせるような、不安を感じさせるものがある。ならば、デカダンスの堕落的で背徳的心理によって、心に平安を保とう!というのがこの話の大まかな流れだ。

この記事を読んでいる貴方は、美しい桜や満月を観ていて、心がざわついたことはないだろうか。胸が締め付けられるような思いになったことはないだろうか…?

この映画は美しすぎる

そうだ。そういうことなのだ。

或る評論家が「この映画は売れる要素を詰め込むだけ詰め込んである」と謂った。

恐らくそれは間違いではない。

青春、友情、純愛、風景、心情、背景、家族、彗星…

ダイレクトに美しいものは心にズドンとくるであろう。

私もそうだ。

『君の名は。』は、小説から読んだ。正直、これを映像化しても売れないだろうと思った。

映画を観た。息を呑んだ。映像や音響、映画とはそれらを含む要素すべてが演出するものであるということに今更ながら気付いた。小説とは全くの別物だと思ったものだ。ありふれたラノベだなと、その程度の感想しか抱かなかったというのに。

だからこそ揺れた。

私は基本的に探すタイプの人間である。アニメをアニメとしてそのまま額面通りに受け取ることはまずない。

メタファーを探す。込められた意味を探す。隠されたメッセージを探す。真意を探す。スタッフの遊び心を探す。推測する。

そうした模索の答えに、私はカタルシスを感じるのだ。

なので、私は日常系の萌えアニメなどは殆ど観ない。下らない。時間の無駄。頭を空っぽにして何かをするのは苦痛だ。マスターベーションならばエロ画の一枚絵で事足りる話だ。

この映画は青春美の結晶である。

ならば、梶井よろしくこの映画に対してひどく陰気に満ちた気分になった者がいたとしても、なんら不思議なことではあるまい…?

私が言いたいのは、そういうことなのである。

…ならばどうするか?

瀧と三葉は結ばれぬ!

櫻の樹の下には死体が埋まっているんだよ。

そうだ。瀧と三葉は結ばれぬ!

全ては真夏の日差しがアスファルトを照らす陽炎の如く揺らめく夢の中。

『結び』…最終的には『結ばれ』るのだろう?

だが、私が最初に『結び』に対して抱いたイメージはあの世…というよりは辺獄(リンボ)のような世界観だ。

…ところでとなりのトトロの都市伝説はご存知だろうか。

メイとサツキが実は最初から死亡していて…という一時期流行った本当は怖い系の噂話だ。

恐怖の都市伝説!『となりのトトロ』に隠された衝撃の真相! – 1年で365本ひたすら映画を観まくる日記

こんなものは所詮こじつけに過ぎない。

しかし、同じようにドラえもんなどの国民的アニメにも、このような都市伝説は流布されている。

それは何故か。潜在的に、人々がこのような退廃的なものを求めるからではなかろうか?

そう、こんな背景を―――

自分で勝手に作っちまえばいい!

惨劇が必要なんだ!

俺たちがこの映画を真の意味で楽しむためには。

病的なくらいでちょうどよかろう。全身の毛が総毛立つ。口元が思わず吊り上がる。目が潤んでくる。ジッとしていられなくなる。想像が溢れて止まらなくなる‐‐‐

そうして心の平穏は保たれる。

2人が結ばれるのは…そうだ、輪廻のムスビか。

はたまた、彼岸のシジマか。ヨスガの彼方か。

ああ、櫻の樹の下には死体が埋まっている!

…そう、今こそ俺は、あの桜の樹の下で酒宴をひらいている村人たちと同じ権利で、花見の酒が呑のめそうな気がする。

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